前編
(1)
「あーあ。まいったなぁ……」
住宅地の中にある、人気のない昼下がりの児童公園。その一郭にあるベンチに座って、オレはため息をついていた。
午前中、学生課に呼び出されたオレは、職員のおばちゃんから封筒をひとつ手渡された。何の疑問も持たずに中身を取り出したオレは、そこに記された文面を見て愕然としていた。
【 工学部 情報工学科二年 柴田孝治
上記の者、以下に記す単位が規定に満たないため、来年度の最履修を要す。
情報工学概論(岩村教授) 取得単位1/2 】
最履修……。つまり留年だ。
試験の結果が良くなかったから、ある程度予測はついていたのだが、実際目の当たりにしてみると予想よりもはるかに衝撃は大きかった。
どうりで今日の授業で岩村のおっさん、オレの方を見てニヤニヤ笑ってたはずだ。
『レポートを提出すれば、考えなくもないぞ?』
なんて言われて慌てて書き上げたけど、どうやら骨折り損のくたびれ儲けだったらしい。
(どうせ留年なんだし、来年また受ければいいや)
諦めの境地でそう考えたオレは、午後の授業をすっぽかして部屋に帰る事にした。
だが帰る途中で段々気分が重くなってきたから、気を落ち着かせるためと少し考え事をするために、公園へと寄ったのだ。
はぁっ……。
――またもやため息。
田舎の両親になんと言って報告したらいいのか。「また無駄な金出させやがって」なんて。こってりと怒られるんだろうな。
そうやって何度ため息をついていただろうか。しばらくぼんやりと考え事をしていると、お腹の辺りがむずむずしてきて、胃がきゅうっと締め付けられるようになり、最後にはギブアップの声を上げた。
――ぐうぅーっ。
腹の虫が鳴いている。
「どんなに悩みがあっても、人間腹は減る。か……」
自嘲気味につぶやいて時計を見ると、午後一時をまわったところだった。
しょうがない。とりあえず部屋に帰って何か喰うとしよう。
やれやれといった感じで立ち上がろうとした時、頭のてっぺんに「こーん」と何かがぶつかった。
「ん?」
オレにぶつかった物体はさらにベンチに当り、跳ね上がると、そのままコロコロとオレの足下から一メートル先に転がった。
頭をさすりながら良く見ると、それは白く半透明に光るテニスボール大の球だった。
キョロキョロと辺りを見渡してみても、周りには誰もいない。いちおう頭上も見てみたが、そこには何もない。ただ青い空があるだけ。
「???」
いったいこれはどこから落ちてきたのか、少し興味がわいて取り上げてみた。
するとこの球体は、ずっしりと重く、砲丸投げのように鷲掴みにしないと、持ち上げる事ができなかった。ゆうに二キロ以上はあると思われる。
(そんなバカな……)
先程オレの頭に当った時は、ピンポン球がぶつかった時ほどの衝撃しかなかった。それから考えるとこの重さは異常だ。
オレは先程以上に興味がわいてきた。今度のは工学的興味だ。
何か新しい素材を発見したのかもしれない。材料工学のヤツに聞いて……いや、その前に自分でネットで調べてみよう。どこかの大学で、研究例が発表されているかもしれない。
拾い上げた球をバックパックにしまうと、オレはうきうきした気分で家路についた。
留年の事など、すっかり忘れてしまっていた。
* * *
アパートに着いたオレは、表で掃除をしていた管理人のおばさんと軽く挨拶したあと、二階の角にある自分の部屋へと向かった。
このアパートは学生向けのワンルームの部屋だけなので、管理人が常駐している。建物は古くて外観はボロボロなのだが、中は現代風にリフォームされて比較的綺麗なのと、家賃が安くて駅や大学に近いことから、学生には人気があった。
オレがここに入れたのは偶然だった。一年の後期の時にここに住んでいた先輩が、広い所に引っ越すというので紹介してもらって、優先的に入れてもらったのだ。
おかげで生活費にも余裕ができて、バイトで苦しまなくて済むようになった。
……と、本来ならいい事尽くめのはずなんだけど、世の中そんなに甘くなかった。
まあ、とりあえずそれは後の話。
部屋に入ったオレは、バックパックをロフトの土台部分を利用したクローゼットの脇に置くと、中からあの球体を取り出して机の上に置いた。
そしてその奥に鎮座している、バイトで稼いだ金を全て注ぎ込んだ、血と汗と涙の結晶とでも言うべきワークステーションを立ち上げた。
立ち上げを待つ間に、台所でカップ麺の準備を始める。
カップにポットのお湯を注いで戻ってくると、画面は準備万端、いつでも使い始められるようになっていた。
とりあえずブラウザを立ち上げて、自分の大学に繋げてみる。
材料工学の論文を漁ってみるが、それらしき物はなかった。
カップ麺をすすりながら、国内はもとより、海外の論文などを探してみたが、該当するような内容は一切出てこなかった。
「うーん。ということは、やはり新発見なのか?」
再び球体を手に取って、まじまじと見つめてみる。心なしか先程より、光の反射が増えたような感じがする。
だが気のせいかと思い直して、球体をいったん机の上に置き直すと、ゴミ捨てとお茶を入れるために台所に向かった。
急須にお茶っ葉とお湯を入れている時に、突然それは起こった。
机が急にミシミシと音をたて始め、球体がそれとわかるほど眩い光を放ち始めたのだ。
「……んな、なんだぁ!?」
慌てて急須を放り出して、机に駆け寄ろうとした、その時。
「ぅわっ!」
メリッ! バキバキバキッ! ドガガガガガッ! ドカッ。
ド派手な破壊音と共に、辺り一面に大量の埃が舞い上がった。
「ゲホッ! ゴホゴホッ! い、一体なんなんだ?」
一瞬のうちに視界が真っ白になり、オレは身動きが取れなくなっていた。
大量の埃に咳き込みながらしばらく立ち尽くしていると、ようやく視界が晴れてきた。
そこで気がついたのは、部屋に差し込む太い光の束。
それを目で追って視線を上に上げていくと、そこには直径五〇センチ強の大きな穴。天井どころか屋根にまで大穴が開いていた。立ちこめる埃は、長年天井裏に溜まっていたものらしい。
「な、なんだ。いったい何があったんだ?」
呆然と今開いた大穴を見つめていると、足下でガラガラと瓦礫の崩れる音がした。
「あ痛たた……。どうしてこんなトコに落っこっちゃうかなぁ?」
鈴を転がしたような柔らかなアルトの声を発しながら、瓦礫の下から這い出してきたもの。それは十二、三歳ぐらいの少女だった。
コスプレで着用するメイド服みたいな、濃紺色の裾の広がったロングワンピースにペチコート。ちゃんとフリフリのリボンの付いた、胸まである大きなエプロンドレスまでしている。足元は白のハイソックスに黒い革靴を履いたままだ。
立ち上がると身体中にまみれた埃をパンパンと叩き落として、キョロキョロと視線を彷徨わせる。
キラキラと黄金色に輝く肩まである髪が、顔を左右に振るたびに柔らかく揺れていた。
ただ、普通の少女とは違う所が一点ある。それは、彼女の背中に小さな羽根が生えていることだった。
「あっ、あった!」
少女はオレの存在に気付かないのか、先程から探していたお目当ての物を見つけると、瓦礫の中から掘り出した。――それはあの白い球体。
少女がそれを顔の前まで取り上げて何か呪文のような言葉をつぶやくと、光を放っていた球体は、たちまち真っ黒い石のような物になった。
おもむろにそれを床に置くと、改めて立ち上がりオレの方を向く。
先程からじっと少女を見ていたオレは、彼女と視線が合うと思わず後ずさってしまった。
「あなたには私が見えるんですね?」
「えっ?」
問い掛けられた言葉に呆然としながら答えていた。何がなんだかわからないまま、慌てて大きく頷くと、少女はにっこりと微笑んだ。
「こんにちは。新人天使のミカっていいます。本当はこんな所に降りる予定じゃなかったんだけど……」
「……て、天使?」
そう言われても、すぐに信じることなんてできる訳ない。何かどっきりか、泥棒が過って落ちてきたって事も考えられる。
「君は……」
少女に尋ねようとした時、玄関のドアが力強く叩かれた。
「ちょっと柴田さん! いったい何があったんだい。入りますよ!」
うわっ! 管理人さんだ。これはちょっとヤバいかも。
大穴や瓦礫の山はともかく、正体不明の女の子がいるなんてことがばれたら、何を言われるかわからない。
一瞬オロオロしたあと、はっと気付いて玄関で押し止めようと考えた。そして慌てて玄関に向かおうとしたが、時すでに遅し。管理人さんはドアを開けてズカズカと部屋の中に入ってきた。
しまった、カギを掛けるのを忘れていた!
中に入った管理人さんは状況を見るなり、口をあんぐりと開けて驚いていた。
「柴田さん、あんた……」
管理人さんの言葉を聞いたオレは、一瞬肩をすくませてビクッとした。
……あぁっ、絶体絶命だ。
「あんた良く怪我しなかったねぇ。おや、なんだいこりゃ?」
「へっ?」
呆気にとられたオレを無視して、足下に転がる黒い物体を持ち上げると、一人で得心がいったような顔をしていた。
「……お、重いねぇ。こりゃ隕石じゃないのかい。こんなもんにぶつからないで良かったよ、ほんとに。それじゃアタシゃ大家さんに連絡するから、あんたはちゃっちゃと片付けるんだよ」
「はあ……」
一方的に言うと、さっさと出ていってしまった。さっきからオレの隣に立っている少女に、気付きもせずに。
ちらっと横目で少女を見ると、視線に気付いた彼女は再び微笑んだ。
「これでわかりました? 普通、人には見えないんです、私達天使の姿は。それよりもあなた、柴田さんと呼ばれてましたね。しばたこうじさん?」
「柴田孝治はオレだけど……」
「うわぁ、ラッキー! 私、あなたを探していたんです。ちょうど良かった」
天使(そう理解する事にした)は瞳を輝かせてぴょんぴょん飛び跳ねると、身体全体で嬉しさを表現していた。
「オレを? いったいどうして……」
「その話はいずれ。それよりもまず、ここを片付けなきゃいけないんでしょ?」
「あ、そうだったな」
瓦礫に手を伸ばそうとして、オレは身体が固まった。
天井の一部や、屋根の一部。屋根瓦の破片に混じって、そこには真っ二つになった机の残骸が。という事は……。
オレは慌てて部屋を見渡した。すると机があった場所とは反対側の隅っこに、見慣れた物の無惨な姿が。
「あぁーっ! オレの汗と涙の結晶のワークステーションが……」
精悍な黒のボディーがくの字にひしゃげて、十八インチの液晶ディスプレイやプリンタ、ルータなどと共に転がっていた。
さっきまで動いていた総額五十八万八千円が、一瞬で粗大ゴミだ。とほほ……。
「あの、ゴメンなさい。私ホントにここに降りるつもりはなくて……」
天使はオレに向かってペコリと頭を下げた。
「でも、どうしてこれがここにあったのかな? 予定では確か公園に降りるはずだったのに」
視線を白い球体の成れの果てに向けながらつぶやくように言う。
「それだったら、オレが公園で拾ってきたんだけど。いったい何なの?」
「そうだったんですか。これは降下目標地点を示す、誘導装置みたいな物です。ふつう地上の生物にはわからないようになってるんですけどねぇ。おかしいですね?」
「あのなあ、現にオレがこうやって持ってきてるんだから、おかしいって事はないだろ? それにコイツ、オレの頭に当ったんだぞ。大して痛くなかったけど、もしもの事があったらどうするんだよ」
オレは公園での事を思い出して、少し怒りながら言った。頭に当った時は何でもなかったが、地面に落ちた後、急に重くなったのだ。そんな状態で当ったら、たまったもんじゃない。
「ああ、それでいいんです。落ちている時は危害を加えないように、ものすごく軽いんです。地面に着いてから、風で飛ばされたりしないように、極力重くなるようにできてるんですよ」
天使はまるで、誰かに聞いてもらいたくてしょうがないといった感じで、楽しそうに説明をしている。
「孝治さんはもしかして、霊感が強い方ですか? 幽霊とか見たりします?」
「うん。まあ、何度かは……」
そう。昔からオレは霊感が強かった。子供の頃から幽霊を見て、何度もションベンをちびったもんだった……って、そんな恥ずかしい事を今思い出してどうする。
「それで私やあの装置が見えたんですね。何百万人に一人の割合で、そういう人がいるらしいですから。……でも良かった、拾ったのが孝治さん本人で。おかげで探す手間が省けました」
「……良かぁねえよ。おかげでこっちは散々だ」
天使の物言いに少し呆れながら、瓦礫を片付けようとしゃがみ込むと、天使は「しまった」という顔をして口に手を当てた。
そして再び「ゴメンなさい」と言うと、深々と頭を下げた。
散らばっている板っ切れを抱えて立ち上がると、天使は笑顔を浮かべながらオレを見ていた。
「なあ、すまないと思うんだったら、少しは手伝ってくれよ?」
「ゴメンなさい。私は地上では、自分の意思に反して起きた事に対して、介入する事ができないんです。ホントに申し訳ないですが」
首を傾げながら、笑顔で言ってのけた。
「あっ、そう! ならいいよ、もう……」
結局オレが一人で瓦礫を片付けた。
(2)
瓦礫を片付け終えて掃除機を掛けていると、管理人さんが大家さんやその他諸々と連れ立ってやってきた。大工さんと保険の調査員らしい。
スーツを着た調査員らしき人が、物珍しそうに石に変わった球体を見た後、おもむろに写真を撮り始めた。そして天井の穴も同様に写真に収めていく。
調査員の検証が終わると、今度は大工さんが脚立に登って、穴の中をじっくりと調べ始めた。
寸法を測ったりして一通り調べ終えると、今度は屋根に登ってベニヤ板を打ち付けた後、青いビニールシートを掛け始めた。どうやら応急処置をしたらしい。
大家さんと話をすると、屋根と天井は保険で何とかなりそうなので心配いらないと言っていたが、家財道具まではどうにもできないと言われた。
そりゃそうだろう。ふつう建物の保険は器だけしか効かないはずだし、中身は住人の方で入るのが一般的だ。
だけど金のない学生が、そんな保険に入る訳はないし、オレだってそうだ。
……あーあ。あのワークステーション、保証書使えるのかなぁ。
お客さんが帰った後、オレは雑巾で水拭きをしながら、床の上にまとめて転がっている最先端テクノロジーの成れの果てを見て、ふとそんな事を考えていた。
一瞬大人数で賑やかだった部屋が、ぽつんと一人取り残されてしまうと、忘れていた留年が決まった事を思い出して無性に寂しく感じられた。
いや、もう一人(?)いたか。
天使は先程からフローリングの床の上に座って、笑顔を浮かべながらじっとオレを見ている。もちろん革靴は脱いでもらった。
あれだけ人がいたのに、誰一人として天使の存在に気付く者はいなかった。
という事は、やはり彼女が自分で言った通り天使なんだろうなぁ……。
――はあーっ。
オレは天使に気付かれないように、そっとため息をついた。
一通り掃除が終わって洗面所で汚れたバケツの水を捨てていると、呼び出しのチャイムの音がなった。
(誰だろう……)
「はーい。いま行きます」
返事をして雑巾やバケツを片付けた後、玄関に行ってドアを開けた。
「よおっ、柴田。残念だったな」
「村田先輩……」
玄関先に立っていたのは、一年先輩の村田さんだった。実際には一浪一留してるから三つ年上なんだけど。
「山本教授から、お前の留年が決まったって聞いたから、ちょっと様子を見にきたんだ。だから岩村の授業なんか取るんじゃないって言ったのに」
「そんな事言ったって、先輩に出会う前に選択したんだからしょうがないでしょう。だいたい留年したのは、元はと言えば先輩が……」
「わかった、わかった。それについては謝る、スマン。このとーりだ」
村田さんは手刀を切るような格好をして、軽くオレに謝った。本当に反省してるんだろうか。
先輩とは一年後期の前半にオレが無理矢理引っぱり込まれた、「システム工学研究会」略して「シス研」という同好会で知りあった。そこは最新のOSやコンピューターシステムを研究する所で、講議で習う一般的な古いシステムに飽き足らない連中が集まっていた場所だった。……いわばオタク虎の穴だ。
オタクが集合しているからには、当然システムの事だけに留まらず、話題はゲームの事などにも及んでいた。そこでメンバーの共同作業で、同人のゲームを作って一儲けしようという話になって、高校時代に一度、プログラミングコンテストで入賞した経験があるオレに、白羽の矢が立ったという訳だ。
その時に交換条件として提示されたのが、売り上げに比例した配当の分配と、この部屋だった。
オタクの集まりであるから、もちろん作るのはアニメチックな美少女ゲーム。しかも先輩の鶴の一声で妹ものになった。
先輩がシナリオを書き、他のメンバーでデザインやプログラミングなどをする事に決まり、作業を割り振った。
しかし、先輩のシナリオの上がりが遅く、プログラミング作業開始の期限を過ぎても作業は一向に進まなかった。
ようやくシナリオが完成した時、即売会まで残された時間はギリギリだった。突貫作業でプログラミングして何とか間に合わせたのだが、おかげで授業の方にしわ寄せがきてしまった。
――そう、それが岩村教授の講議だ。岩村のおっさんの講議はなぜか朝イチが多く、徹夜作業で疲れたオレは、すっぽかす事が多くなった。――おかげでこのザマだ。
まあ確かに、ある程度売り上げがあってワークステーション購入の足しになったとはいえ、それも今やあの状態では、素直に喜べないものがある。
「本当に反省してます?」
「だから、こうやって元気の素を持ってきたんじゃないか。ほれ!」
そう言って先輩は、ドアの影に隠れていた人を引き入れた。
「柴田君、こんにちは!」
「――りょ、涼子さん! こ、こんにちは」
一瞬オレの心拍数が跳ね上がった。先輩の前にちょこんと姿を現した女性は、同級生の沢田涼子さんだった。
背中まであるストレートの黒髪をふわっと揺らしながら、ペコリと可愛らしく挨拶をした。
季節を先取りしたような、品のいいパステルグリーンのシンプルなワンピースに、キャメルカラーのウールジャケットを清楚に着こなしている。
どこからどう見てもお嬢様といった風貌。実際彼女はお嬢様だった。
ハイテク電子機器で世界的に有名な沢田通信機。彼女はそこの御令嬢なのだ。
しかし一般的なお嬢様のイメージとは違って、つんけんした感じはなく、誰とも分け隔てなくつき合っていた。人当たりが良くて優しいし、細かなところにも気を配るし、それに美人だし。だから彼女は工学部のマドンナ的存在でもあったし、オレも密かに憧れている。
そんな彼女もシス研メンバーの一人だ。オレとほぼ時を同じくして、メンバーに加わった。
どうして彼女みたいな人がオタクの巣窟にいるかと言うと、どうせ家業を継ぐんだから、最新の技術の研究をした方がいいと思ったのと、オタクと呼ばれる連中は天才肌のちょっと変わった人が多いから、今のうちに見る目を養って、将来採用する時に役立てたいという思いがあるからだ――。と、彼女自身の口から聞いた事がある。
ちなみに彼女はゲームでは、特技のピアノの腕を生かして音楽を担当してくれた。
「お菓子とか買ってきたから、立ち話もなんだし。上がらせてもらってもいいかな?」
涼子さんは、右手に持っていたケーキ屋の箱を上に挙げて振ってみせると、ニコッと微笑みながらオレに聞いた。
「ああ、すみません。どうぞ上がって下さい」
オレは慌ててスリッパを準備すると、二人を部屋へ招き入れる。
「おじゃましまーす。これが柴田君の部屋なんだぁ、へぇーっ!」
「ついでに言うと、元俺の部屋な」
先輩のしょうもない発言を無視して、涼子さんは物珍しそうにきょろきょろ見回しながら、奥へと進む。
「今準備しますから、ちょっと待って下さい」
二人にそう告げると、クローゼットから予備のクッションを出して床に置いた。そして立て掛けておいた丸い折り畳みテーブルを引っ張り出すと、部屋の中央へと置く。
その間涼子さんは立ったまま部屋を見ていると、天井に開いた大穴に気付いた。
「これ、どうしたの?」
「いや、それは……今日ちょっとした事故があって」
テーブルから脚を引き出しながら涼子さんの方に視線を移すと、そこには彼女以外に二人の少女がいた。
(――げっ! ふ、増えてる……)
二人とも背中に小さな羽根が生えている。一人は天井に大穴を開けた張本人。もう一人はプラチナ色をしたショートカットの髪形で、ボーイッシュな感じがするスレンダーな天使。フリフリのメイド服は一緒だけど、色が焦茶色だった。
天使達は互いに手を取り合って喜ぶと、笑顔で談笑を始めている。しかし、その言葉はいかにも異界の言語という感じで、内容を理解する事はできない。
「なんだ柴田。お前今日、踏んだり蹴ったりだな。もしかして厄日か?」
「ホントですよ、ハハハ……」
先輩の言葉にオレは力なく笑っていた。
運の悪さを嘆いているからじゃない。二人に天使の存在がばれないかとヒヤヒヤで、気が気じゃなかったからだ。
幸いな事に二人とも、天使達の存在に気付く事はなかった。
テーブルのセッティングが終わると、まじまじと天井の穴を見ていた涼子さんに座ってもらうように声を掛けた。
「それじゃ、お茶でも出しますから……」
「ああ、いいわよ。わたし立ってるついでにやるから。まかせて!」
「それじゃすみませんが、食器棚にカップと一緒にコーヒーとレモンティーがありますから。どっちもインスタントですけど――。あ、冷蔵庫にウーロン茶もあります」
「OK! じゃあ、ちょっと待ってて」
そう言うと涼子さんは、ケーキ屋の箱をテーブルの上に置いて台所へと向かった。
それと同時に、談笑していた天使のショートカットの方が、慌てて後を追っていく。どうやらこっちの方は涼子さんについてきたみたいだった。
今まで涼子さんと一緒になる事は何度かあったけど、こんなふうに天使だという少女がくっついているのを見たのは今日が初めてだった。
オレの時みたいに急にやってきてとりついたのか、それとも以前からくっついていたのが見えなかったのか。後者だとすると、今日のショックで見えるようになったんだろう、たぶん――。
「なあ、事故っていったい何があったんだ?」
「それが……」
先輩の問い掛けにオレは答えに窮してしまった。
まさか本当の事を言う訳にはいかないだろうし、仮に言ったとしても信じてもらえずに、気でもふれたかと思われるのが関の山だ。
ここはやはり隕石のせいにして、お茶を濁すのが正解だろう。
「急に石みたいなのが落ちてきて――。あれです、そこにある黒いヤツ。どうやら隕石らしいんですけど」
「そいつは珍しいな。どれ、ちょっと見せてくれ」
先輩は立ち上がると、元机があった場所に置いてある球体を手に取った。
「確かに真っ黒に煤けててちょっと重いけど、こうして見ると普通の石と変わらねえな」
そう言うとそれ以上興味がわかなかったのか、無造作に元の場所に置くとテーブルの方に戻ってきた。
「しかし屋根だけで済んで良かったじゃねえか」
「いえ、それだけじゃないんですよ。ほら」
オレが指差す方向を見た先輩は、それが何かを理解すると、目を思いきり見開いて口をあんぐりと開けた。
辛うじて被害を免れた机の中の小物類と一緒に、積み上げられているハイテク機器の成れの果て。
「お、お前、それ……つい最近買った、沢田んトコのワークステーションじゃねえか!」
「なに? うちがどうかしたの?」
自分の名前に反応した涼子さんがこちらへと視線を向ける。
その時、一瞬意識がお留守になって、持っていたカップを下に落とした。
「あっ!」
涼子さんはびっくりして声を上げたが、カップは何事もなかったかのように足下のマットに着地した。――いや、そう見えただけだ。
オレにははっきりと見えていた。ショートカットの天使が、カップが床に落ちる瞬間手を差し伸べた事が。
「――ふうっ、危ない危ない。ごめんね、カップ落としちゃった。でも割れてないから許して」
舌をペロッと出すと、涼子さんは少女のように可愛らしく謝った。
気を取り直してカップを取り上げると、一度簡単に洗ってコーヒーの準備を続ける。
ポットのお湯を三つのカップに注ぐと、それをお盆に載せて戻ってきた。
涼子さんがクッションに座ると、オレと涼子さんとの間に空いた隙間に、天使達がちょこんと座る。
「はい、お待たせ――。で、うちがどうしたって?」
涼子さんがカップを配りながら聞くと、先輩が指差しながら答えた。
「ほれ、隕石に直撃されたんだと」
「あっ、うちのワークステーション。事故って隕石が落ちてきたの? それでこんなボロボロになっちゃったんだ」
くの字に曲がった自社製品を見つめながら、つぶやくように涼子さんは言った。
沢田通信機製SEW―6000、エンジニア向けワークステーション。涼子さんにお願いして、特別に社員割と同じ値段で売ってもらったものだ。
「なあ沢田。これ、何とかならないか?」
留年の原因の一端となったワークステーションが、買ってすぐにこの有り様じゃさすがに寝覚めが悪かったのだろう。これまた原因の一端である先輩が、助け船を出してくれた。
「とは言っても、保証書や保守契約じゃ天災まではカバーしてないのよねぇ。どちらかと言うと保険の範疇なんだけど……」
しばらく考え込んでいた涼子さんは、急に思い付いたようにオレに顔を向けた。
「そうだ! 柴田君。これ、うちに譲ってくれないかな?」
「えっ? もう使えないのに?」
涼子さんの申し出に、正直オレは驚いた。ロジックボードが割れてしまって二度と使い物にならないのがわかっているのに、どういうつもりだろう。
「隕石に当ったのって珍しい事例だし、記念になるわ。それに研究所に持ち込めば、堅牢さが必要なFA用マシンの開発にも役立つだろうし。どうかな? 代わりの機材はわたしが手配するから」
そう言って涼子さんは携帯を取り出すと、どこかに電話をかけ始めた。そしてしばらく何事か会話をしている。
その間天使達は、二人だけで談笑を続けている。
先輩と二人で涼子さんの一挙手一投足を凝視していると、涼子さんは携帯を外しておもむろにオレに尋ねてきた。
「OKだって。搬入はいつにすればいいかって聞かれたんだけど」
「――あ。じゃあ屋根の修理が終わるのが二日後だから、その日の午後……できれば夕方に」
「わかったわ。二日後の夕方ね」
そう確認すると、再び携帯で話し始め、しばらくしてから電話を切った。
「本当に良かったの? 何だか悪いよ」
「いいから、気にしないで。お祖父様に頼んだから」
……お、お祖父様って、創業者直々に話が伝わったのか? それはちょっと大事になりそうかも。
「うちのお祖父様、わたしのお願いなら大抵聞いてくれるから。それにお祖父様も興味津々だったし、構わないわよ」
いかに自分が愛されているか、って。普通なら自慢げに聞こえるものだが、涼子さんが言うと一切厭味な感じはしない。むしろそれが当たり前のように感じてしまうから、不思議なものだ。
こうして我が愛すべき粗大ゴミは、沢田通信機本社に永久展示される事になった。
その後三人で、涼子さんが買ってきたお菓子をつまみながら、岩村教授の悪口など他愛もない話をして(教授の悪口のどこが他愛もない話なんだか)、外が暗くなった頃にお開きという事になった。
玄関まで見送りに出ると、あのショートカットの天使が一緒についてきた。これでこの天使が涼子さんについているのは確実だ。
天使は表に出た涼子さんに寄り添うように並ぶと、こちらに向かって手を振った。
振り向いてみると、もう一人の天使がオレの後ろで、笑顔を浮かべて手を振り返している。
そうこうしているうちに先輩が靴を履き終え、出て行こうとするのをオレは引き止めた。
「どうした?」
「先輩、暗いからって送り狼にならないで下さいよ」
涼子さんに聞こえないように小声で警告する。先輩を信用してない訳じゃないけど、万が一って事もあるからだ。
「バカやろう。俺は工学部の男全員を敵に回す度胸はねえよ。じゃあな!」
先輩は俺の心配を鼻で笑うように言ってのけると、外に出て歩き出す。
ドア越しにオレが顔を出すと、先輩と並んで通路を歩いていた涼子さんが振り向いて、笑顔で小さく手を振ってくれた。
二人が無事帰っていったのを確認すると、オレは部屋に戻った。
やれやれといった感じでクッションに腰を降ろすと、後からとたとたと駆けてきた天使が、滑り込むようにしてオレの隣に座る。そしてテーブルの上に腕をのせると、頬杖をついてオレを見つめた。
「……なんだよ」
「ね? 誰にも見られなかったでしょう?」
悪戯っ子みたいに瞳をキラキラさせながら、自慢したくてしょうがないという感じで言った。
「ああ。君が天使だというのはわかったよ。それよりも……」
「ちょっと待って下さい」
無理矢理オレの言葉を遮る。
「ちゃんと自己紹介したんですから、名前で呼んで下さい」
「えっ? あ、あぁ。えっと……ミカだっけ?」
オレが尋ねると、嬉しそうにコクンと大きく頷いた。
「なあ、ミカ。ちょっと聞きたい事があるんだけど。さっきまでいた娘……彼女も天使なんだろ?」
「そうです。私の幼馴染みで、ルカちゃんっていうんです。すごいんですよ、彼女。最年少で一級天使資格を取ったんですから。私なんて二級が取れたばかりなのに――。それでですね……」
「ちょっと、ストップ。そういう細かい事はいいから、要点だけ教えてくれ。さっきあの娘はカップが落ちそうになった時、手で支えたよな? ああいう事ってできないんじゃなかったのか?」
「ん?」
オレの問い掛けにミカは、頬杖をついたまま視線を中空に漂わせてじっと考え込む。しばらくして思い出したのか、合点がいったかのようにポンと手を叩くと大きく頷いた。
「――ああ、あれですか。彼女はいいんです。一級に許された特権ですから。元々ルカちゃんと私とでは所属する部署が違うんですよ」
「部署が?」
資格だとか部署だとか。そういう言葉が出てくるって事は、天使の世界も人間と大して変わらないみたいだ。
そんなふうに思いながら聞き返すと、ミカは朗々と説明を始めた。
「地上部所属という点は同じですけど、私は回収課でルカちゃんは擁護課勤務なんです。ルカちゃんの場合はあの女性――涼子さんでしたっけ――をあらゆる厄災から護る事が仕事なんです。それは一級資格を持った擁護課の天使しかできない事で、だからルカちゃんの場合はそれが許される特別な存在なんです」
――なるほど。つまり、ルカっていう娘とミカとでは仕事の内容が違うから、ミカが制限されてできないような事もルカはできるって事らしい。
「だから、孝治さんが心配するような事は一切ないはずですよ。涼子さんが望まない限り、ルカちゃんが涼子さんを護ってるんですから」
「なんだ、聞こえてたのか」
「もちろん!」
えっへん、どうだ! って感じで、自慢げに胸を張りながら言う。
「そうか、ならいいや。なあ、他にも聞きたい事が……」
ってミカに聞こうとした矢先、オレの腹の虫が鳴き声を上げた。
――ぐるぎゅるぎゅるぎゅーっ!
どんな状況にあっても、人間腹は減る。昼はカップ麺だけだったし、予想外の力仕事をした上にさっき食べたお菓子が呼び水になって、胃の活動が活発になったようだ。
ちょっと真面目な話をしようと思ったのに、腹の虫のせいでその気も失せてしまった。
「そういやもう晩飯の時間か……。なあ、ミカ。お前ご飯食べるのか?」
「え? 食事ですか……。くふっ、うふふふふ……」
「にへら」と口を開けてだらしなく笑うと、端っこからポタポタ涎を垂らし始める。
「ミカ? おーい」
顔の前で手を振ってみるが、反応しない。目は焦点が合わないまま、ぼんやりと宙を見ているし、ぐふぐふと変な笑いかたをしながら半開きになった口からは、涎が止めどもなく溢れていた。
だめだこりゃ。変な世界に飛んでいっちまってる。
「おーい、ミカ。しゃきっとしろよ、しゃきっと」
ぺしぺしと軽く頬を叩く。人間の少女と同じ、ぷにぷにとした柔らかい感触が伝わってきた。天使なんて普通見えない存在だから、もっと違った感触――下手すりゃ触れない――かと思ったが、そうじゃなかった。
……そりゃそうか。じゃなきゃ、屋根なんてぶち抜けないよな。
「あっ、ゴ、ゴメンなさい。私ったら、つい……」
慌てて手で口のまわりを拭って取り繕うが、時すでに遅し。涎はテーブルの上に垂れ落ちて、小さな水たまりを作っていた。
「――ったく、だらしねえなぁ。ほれ、それで拭きな」
オレはティッシュを二、三枚取ると、ミカに差し出した。
「すみません……」
俯きながら恥ずかしそうに言うと、オレの手からティッシュをひったくって、口、手、テーブルと順番に拭き取っていく。たっぷりと水分を吸った使用済のティッシュをくしゃくしゃに丸めると、テーブルの上にポイッと放り出して、キッと居ずまいを正した。
「で、なんでしたっけ?」
「だから、食事だよ。ゴ・ハ・ン!」
ミカの放り出したティッシュを指で摘んで、ゴミ箱に投げ入れながら、念をおすように繰り返す。
「た、食べます。ぜひ食べさせて下さい!」
身を乗り出しながら叫ぶように答えると、指を目の前で組んで祈りを捧げるような格好になる。
――あ、また飛んでいきそうな感じ。
「先輩の天使から色々と聞かされてるんですよ。本来、私達天使は、地上にいる時は周りの生物のエネルギーを少しづつ分けてもらっていて、食べ物を食べる必要がないんです。でも孝治さんみたいに私達天使が見えて、優しい人に当ったら、沢山おいしい思いができるって――。中でも食事は最大の楽しみで、天界では食べられない物を毎日食べる事ができるって言ってました。だからすっごく楽しみにしてたんですよぉ」
「で、天使ってなに食うんだ?」
「天界では聖なるお水と、パンみたいなお芋ですけど?」
いったいなに聞くんだろうって感じで、きょとんとした顔で答えた。
「違うって。どういうのが好きか、嫌いな物があるかって聞きたかったんだけど」
「すみません。私ったら、早とちりで……。大丈夫です。地上の物はほとんど食べられるって、先輩から聞きました」
恥ずかしそうにペロッと舌を出しながら、照れ隠しに頭をポリポリと掻きつつ言う。
「わかった。男の料理だから大した物は出せないけど、それでもいいかな?」
実際問題、独り暮らしの男子学生が作る料理なんてたかが知れてるから、一応了解を取ったんだけど。それでもミカは満面に笑みを浮かべながら、嬉しそうに返事をした。
「はい。喜んで!」
――って、居酒屋じゃないんだから。どこでこんなフレーズを覚えたのか。
オレは立ち上がると台所に向かった。
冷蔵庫を開けて中身を確認してみると、余り物の野菜が少しあるだけだった。
続けて炊飯器を開けてみる。残りは1合分もない。
ふーむ。と考えてからお皿を取り出すと、ご飯を全てその皿に空ける。一旦内釜を空にしてしまうと、新たにお米を研ぎ始めた。
「なあミカ。これが終わったらちょっと買い物に行くから、ここで待っててくれるか?」
がしがしとお米を研ぎながら、テーブルの前に座ったままのミカに聞くと、「ダメですよぉ」って言いながら立ち上がって、とてとてとオレの側に駆け寄ってきた。
「私達は契約した人と、いつも一緒にいなくちゃいけない決まりなんです。さっき孝治さんに『幽霊が見えますか?』って聞いたのも、それに関係してるんです」
「幽霊と天使がなんの関係があるんだ?」
お米を研ぐ手を休めずに聞くと、再びミカは朗々と説明を始めた。
「人間は亡くなると魂だけになりますが、それは絶対に見る事ができません。じゃあどうして幽霊が見えるかって言うと、私達天使が代わりに姿を見せているんです。契約した人が駄々をこねて、天界に上がらない事がたまにあるんです。だからその人が地上に未練がなくなるまで、一緒にいる天使が代役をしてメッセージを伝えているんです」
オレはふんふんと相槌をうちながらミカの話を聞いていた。
「考えてもみて下さい。どうして心霊写真が存在するのに、人間の姿しか写らないんですか。未練の残った魂が写るのなら、ペットの姿が写っていてもおかしくはないでしょう? つまり答えは、私達天使が、我がままを言う人に代わって写っているからなんです。ほら、こんなふうに……」
ミカはそう言うと目を閉じて全身の力を抜いた。するとミカの身体の輪郭がぼやけて一瞬姿が見えなくなったが、すぐにその場に姿が浮んできた。
が、その容姿はミカではなかった。目の前に現れたのは、オレ。多少薄ぼやけてはいるが、確かにオレの姿だ。
「うわっ、たっ……」
驚いたオレはうわ言のような言葉しか発する事ができなかった。
「ゴメンなさい。驚かせちゃいました? すぐに元に戻りますね」
オレの隣に存在するオレから、楽しそうに謝るミカの声が聞こえた。そしてまた姿が消えると、元通りのミカの姿になって再び現れた。
「という事です。おわかりいただけました?」
笑顔のまま小首を傾げてオレに聞いた。
オレはこくこくと慌てて頷くと、驚いて止まってしまっていた手を再び動かしながら考えた。
なるほど。確かに言われてみれば一理ある。
――という事は幼い頃に見た幽霊はみんな天使だった訳で、わざわざションベンをちびるほど怖がらなくても良かったって事だ。できる事なら時間を巻き戻して、あの時かいた大恥を返して欲しいくらいだ……。
しかし、ここでちょっと疑問が生まれた。
研ぎ終わったお米に水を張って、炊飯器に戻しながらミカに聞いてみた。
「だけど、オレはお前と契約した憶えはないんだけど」
別に図書館から古いオカルトの本を持ち出して、魔法陣を描いてみたとか、コンピュータウィルスのせいで変なサイトに繋がったとか。そういう憶えは全くないのに。
炊飯器の蓋を閉めてボタンを押しながら言うと、ミカは思い出したように声を上げた。
「あ、そうでした。天界の決定事項だったので孝治さんの所にきましたけど、本契約はまだしてなかったですね。じゃあ、今すぐします……」
ミカがそう言うと同時に、オレは暖かい空気に包まれた。あまりの心地よさに我を忘れて、一瞬ぼーっとしてしまったほどだ。
続けて胸板の辺りにぽよんとした、柔らかな感触が伝わってくる。
(えっ?)
驚いて慌てて確かめてみると、ミカが正面からオレに抱き着くような格好になっていた。あの柔らかな感触は、ミカの胸がオレに当って感じたものだったのだ。そしてオレの首に回した手に力を込めると、顔を徐々にオレへと近付ける。
ミカの身体から立ち上る、ホットミルクみたいな甘い暖かな香りに包まれて、オレは動く事ができなかった。そうする事が自然だというふうに感じて、思わず目を閉じてしまう。その後、プチュッと柔らかく少し湿った弾力を唇に感じた。
(あ……)
はっきりと感じる。ミカはオレにキスをしたのだ。重ね合わされた唇を通じて、ミカの身体の震えが伝わってくる。やがて暖かな唇は、ゆっくりと離れていった。
身体に感じた柔らかな感触と、甘い暖かな空気が消え去ったのを感じ取ると、オレはゆっくりと目を開けた。
ほんの二、三秒という短い時間だったが、確かにミカはオレとキスをしていた。いつまでも唇に残る感触がそれを証明している。
「ど、ど、ど……」
はっと我に返ってから「どうして」って聞こうとしたが、単気筒OHCエンジンのアイドリングみたいに、「ど」の音を繰り返すばかりで言葉にならなかった。
「これが契約の方法なんです。本来なら別の方法なんですけど、孝治さんには『存在を知られてしまった場合の特別条項』を適用しました」
ミカはオレが何を言いたかったのかわかったらしく、笑顔を浮かべて的確に答えていた。しかし冷静な受け答えに反して、ミカの頬はほのかに桜色に染まっていた。
「う……」
契約方法だと言われてしまえば、それ以上は言い返す事ができない。オレは二の句が接げずに黙りこくるしかなかった。
ミカは自分の唇を指で触れると、また何か呪文のような意味不明な言葉を発した。そして投げキッスをするように指を離すと、唇の前に豆粒ほどの白い光体が出現した。それは空中に浮んでいたと思ったらゆっくり上昇して、やがて天井を突き抜けるようにして消えていった。
「これで契約書は天界へと送られました。孝治さんが魂となって天界に昇るまで、私がサポートをする事になります。よろしくお願いしますね」
「はあ。よ、よろしく……じゃなくて!」
――って和んでいる場合じゃなかった。キスしてしまったのだ……。
この歳まで女性に縁がなかったから、ファーストキスだったのに。その相手が中学生くらいの少女で、しかもよりにもよって人間の女性ではなくて、天使――。
はふっと息を吐きながらこぼすように言うと、ミカから予想外の反応が返ってきた。
「孝治さんが初めてで良かったです」
顔を真っ赤にしながらも、笑顔でそう答える。
「え?」
それっていったいどういう意味だ。……ま、まさかミカ。オレの事――。
急にドキドキと心拍数が上がっていく。だ、駄目だぞミカ。オレには涼子さんという心に誓った女性がいるんだから。
「私、初仕事が孝治さんだから、契約の特別条項も初めてだったのね。だから下手なのがばれないようにって緊張してたの。でも孝治さんも初めてだって聞いて、安心しちゃった。お互い初体験なら、もし失敗したとしてもしょうがないですよね」
俯いて、身体をもじもじとくねらせながらそう言った。
――なんだ、そういう事か。別に特別な感情とかがあった訳じゃないんだ。
一度昂った気持ちは、想定していなかった答えを聞くのと同時に、嘘みたいにすーっと治まっていった。
スイッチを入れられた炊飯器が、徐々にヒーターから音をたて始めている。気がつくとちょっとばかり時間をロスしたみたいだった。
そうだ、今はゆっくりしている場合じゃない。
「もうどうだっていいよ。それより、一緒に買い物に行くんだろ? 早く行かないと品物がなくなっちまう。ミカ、急げよ」
「あ、待って下さいよぉ」
玄関の方へと歩き出しながら言うと、ミカは慌ててついてきた。そして二人で並んで靴を履くと、一緒にドアを開けて表へと出る。
すでに何度も繰り返されてきた事を、当たり前にしているみたいに――。
(3)
「おまたせ。できたぞー」
ジュージューいってるフライパンから熱々の中身を大皿に移すと、ミカの待っているテーブルへと運んでいく。テーブルの上にはすでに二人分のご飯と味噌汁、ポテトサラダが並んでいる。ミカがせっせと運んでくれたのだ。
瓦礫の片付けの時のことがあったので、断わられるかと思っていたが、初めての地上での食事がよほど嬉しいのか、ウキウキしながら嫌な顔ひとつせず、楽しそうに手伝ってくれた。
瓦礫の時とは違って食事は自分が望んだ事なので、行動の制約は一切ないらしい。
いちいちどういう材料を使っているのか、どんな食感なのか、どういう味がするのか、でき上がった料理を運ぶ度に説明するのは面倒だったけど、だんだんと何も知らないミカに教えるのが楽しく感じるようになっていった。
テーブルの真ん中にお皿を置くと、ミカはキラキラと光る瞳に好奇心の色をいっぱい浮かべながら、じっとお皿を覗き込む。
「孝治さん。これ、なんて言うお料理なんですか?」
「何って、単純な肉野菜炒めだけど」
答えながらミカの正面に座る。
独り暮らしだと材料を余らせやすい。特に野菜なんて良く余ってしまう。
そんな時に余り物を片付けやすい料理はこれか、カレーか、スープにするぐらいしかオレは知らない。
「さあ、熱いうちに食べようぜ」
「ちょっと待って下さい」
箸を手に取りながら味噌汁に手を付けようとすると、ミカは座ったまま姿勢を正して目を閉じた。すると先程と同じように身体の輪郭がぼやけて、一瞬ミカの身体が消えたが、今度は同じ姿のままで浮かび上がってきた。
「今度は何したんだ?」
見た目に変化がない事を疑問に思って、ミカに尋ねてみる。
「えっと、身体の組成を人間と同じにしたんです。あの姿のままだと食べ物を消化できないので。――あ、そうか。孝治さんは私が見えるから区別が付かないんですね。組成を変えるとこうなるんです。ほら」
そう言うと身体を捻って、背中をオレに見えるようにした。
ミカの背中には、あの特徴的な天使の羽根がなかった。跡形もなく綺麗さっぱり消えていた。
「これが普段の姿なんです。ただこの姿になると全ての人に私が見えちゃうんで、よっぽどの事がない限り変わらないんですけどね」
「という事は、もし今、誰かがきたら……」
「私の事がばれちゃいますね」
ミカは笑顔であっけらかんと答えた。
「そ、それはまずい! さっさと食っちまおう」
慌てて味噌汁に口を付けてご飯をかき込もうとしていると、ミカはきょとんとした顔でオレの行動を見ていた。
「ほら。早く食べちゃえよ」
オレが促すように言うと、ミカはおずおずとしながら聞いてきた。
「あの……どうやって食べるんですか?」
迂闊だった。ミカがここにきてからというもの、放っておいても普通に行動していたので、まさか箸の使い方を知らないとは思わなかった。
オレはミカの手許に置いてあった割り箸を割ってからミカに手渡すと、文字通り手取り足取りで使い方をレクチャーした。
指先から伝わるミカの手の感触は、スベスベで柔らかくて、思わずドキッとしたほどだ。
結局、覚束ない手で何度もテーブルの上におかずを落とし、その度に繰り返し使い方を教えていたのだが、ミカは箸を使いこなせるまでには至らなかった。
オレは諦めてミカにフォークを使わせた。
それからというもの、ミカの食事のペースも上がって、二人ともあまり会話をする事もなく、黙々と食事を口に運んだ。
二人前という事で、普段の倍以上の量を作っておいたが、それもあっという間に片付いてしまった。
「ごちそうさまでした。何だか口の中がピリピリして、変な感じです。でも、とっても美味しかったです」
ペコリと小さく頭を下げながら笑顔でミカは言った。
「そう。気に入ってもらえて良かったよ」
口の中がピリピリするのはたぶん胡椒のせいだろう。天界には食べ物の種類が多くないみたいだし、胡椒みたいな調味料もないのだろう。
初めて感じる感覚がよほど気に入ったのか、ミカは口の中に何も残ってないのに、最後まで味わい尽くそうと何度も口をモゴモゴと動かしていた。
「でも、いつまでもそうしていると意地汚なそうに見えて、あさましく感じるぞ。いいかげん止めときなよ」
思わず「クックック」と喉を押し潰したような笑いを漏らしながら言うと、ミカは顔を真っ赤にして罰が悪そうに俯いた。
「す、すみません」
「それにまだお楽しみがあるんだから。ちょっと待ってて」
「えっ?」
お楽しみという言葉に反応して急に顔を上げると、好奇心いっぱいの視線をオレに送ってきた。こういうところはさほど普通の少女と変わらない。
オレは立ち上がると台所に行って、食器棚からスプーンを、冷蔵庫の中からはプリンをそれぞれ二つずつ取り出して、部屋へと戻るとミカに手渡した。
「はい。デザートのプリンだよ」
「デザート? プリン?」
「いいから、オレの真似して食べてみなよ。甘くて美味しいぞ」
箸の前例があるから、見よう見まねでできるように、ひとつひとつ手順を踏んでやってみせる。上のビニールを剥がし、スプーンを握ると中身をすくって口の中へと運ぶ。
ミカは一連の動作を見た後、おっかなびっくりといった感じでビニールを剥がすと、ぎゅっとスプーンを握りしめて、先端を恐る恐る容器に沈めていく。
何の抵抗もなくスプーンがプリンをすくい取り、その上でゆらゆらと揺れているのを見て笑顔を浮かべた。
「あはっ!」
しばらく楽し気に揺れるプリンを観賞した後、思い切って「パクッ」とスプーンを口の中に入れた。同時に表情が段々とろけていく。
「お、美味しいです! 甘くて、柔らかくて、あっという間に消えてしまって。こんなの先輩は教えてくれませんでした。最高です!」
「喜んでもらえたみたいだね。デザートっていうのは、食事が終わった後に食べる少量の甘い食べ物の事で、プリンがこれの名前だよ」
「そうですか。これ、プリンって言うんですか。こんな食べ物があったなんて……感激です!」
それだけ言うと後は一心不乱にスプーンを動かし、あっという間に容器を空にしてしまった。
プリンが相当嬉しかったのか、食べ終えた後、ミカは何も言わなくても率先して後片付けを手伝ってくれた。
洗い終わった食器類を全て片付けてから、昼間被った埃を洗い流そうと、風呂の準備を始める。お湯を張ろうとトイレ一体型のユニットの中に入っていくと、ミカも一緒についてきた。
いくら一緒にいるのが仕事だからって、まさか風呂まで一緒って事はないよな。
「これから風呂に入るんだけど、まさかお前も一緒に入るとか言わないだろうな」
「あ、お風呂でしたか。大丈夫ですよ。天使の姿でいる限りは、汚れを寄せつけないようになってますから」
ほら――。そう言いながら、元の天使の姿に戻る。髪の毛はつやつやと光を反射して、文字通りの天使の輪が輝いているし、小振りな羽根も真珠みたいにキラキラ光っている。どこを探しても、埃のほの字も見つける事はできなかった。
「だからお風呂は必要無いんです。心配しなくてもお部屋で待ってますから……。でも、孝治さんがお望みであれば、私は御一緒しても構いませんが」
「か、構う……大いに構う! いいか、絶対に入ってくるなよ。何かあればこっちから声を掛けるから」
「はい。わかりました」
ミカの返事を確認してから、バスタブにお湯を張る。ユニット式のバスタブは浅いから、油断しているとすぐにお湯が溢れてしまう。
オレは部屋に戻って着替えのパジャマを準備すると、バスタオルと一緒に抱えて風呂場に入った。
扉を閉める前に隙間から顔を出して、外のミカに向かって念を押す。
「覗くんじゃないよ」
言いながら、まるで鶴の恩返しみたいだと思った。でもあれは鶴のセリフだから、これじゃまるっきり反対だ――。などと、どうでもいいような事を考えたりして。
「そこまで無神経じゃありません。ちゃんとここで待ってます」
部屋に戻ってちょこんとクッションに座ると、笑顔でミカは言い返した。その表情に偽りがない事を読み取ったオレは、ようやく安心して服を脱ぐ事ができた。
汚れを気にして普段より時間を掛けて身体を洗い、風呂場から出てくると、ミカは眠そうに欠伸をしていたところだった。時間を見るともうすぐ十一時。子供ならば熟睡している時間だ。
「そう言えば、お前どこで寝るんだ?」
ドライヤーで髪を乾かしながら、ふと疑問を口にした。普段オレの部屋に泊まりにくるのは友達ぐらいだから、雑魚寝で済ましてるし、お客さん用の布団なんてないから。あるとしても予備の毛布が一つあるくらいだ。
「気にしないで下さい。私はそこら辺で寝ますから」
少し眠そうな顔をして欠伸を噛み殺しながら、ミカは答えた。
いくらなんでもそれは良くないだろう。天使とはいえ女の子なんだし、そんな事をさせちゃオレの男としての沽券に関わる。ここはやはりミカに布団を使わせて、オレが毛布で寝る事にしよう。
「それはいけません。孝治さんは普段通りの生活をして下さい。優しくしていただけるのは嬉しいんですが、もし孝治さんが私を見る事ができなかったら、いつもと変わらない生活をしてたはずですし、それを見守るのが私の仕事でもあるんですから」
さっきまでの眠そうな表情はどこへ行ったのか。ミカはぱっちりと目を見開いて、幾分強い口調で言った。仕事なんだから、気にしないで下さいと――。
「そうは言っても夜はまだ寒いし、あの穴からすきま風が入ってくるだろうし」
「大丈夫です。気にしないで下さい」
それからしばらくは押し問答が続いた。喧々囂々、オレが私がと譲り合いを繰り返す。何度目かのやり取りの後、ミカは考え込んでからゆっくりと口を開いた。
「それでは……孝治さんさえ良ければ、一緒に寝かせてもらっていいですか」
「え? ――アチッ!」
驚いて手が止まってしまったために、ドライヤーが一箇所に当りっぱなしになってしまった。火傷するかと思った。
もう充分髪は乾いたのでドライヤーを止める。
「いつまで言い合ってても答えが出ないんなら、妥協案を出すしかないでしょう。こんな事してたら眠れなくなっちゃいますよ」
「でもなぁ……」
そうは言っても、女の子と一緒に寝るなんて事は、考えてもいなくて。でも、このままだとミカの言う通り、いつまで経っても寝られそうにないし。一度くらいはこういう経験をした方がいいかなんて、変な考えが浮んできたりして。
まあ普通の女の子じゃなくて天使なんだから、別に気にする必要はないと、自分に思い込ませようとしていた。
「まあ、ミカがそれでいいんなら」
結局、最終結論としてオレも妥協する事にした。
「はい。それじゃ一緒に寝ましょうか」
ミカの返事を聞いてオレは立ち上がると、部屋の電気を消した。
ロフトの階段を上がって小さなスペースに敷きっぱなしの布団の側にくると、掛け布団を捲って中に滑り込む。遅れてやってきたミカは布団の横に座ると、「失礼します」とひとこと言ってオレの横に潜り込んできた。
オレの方を向くように、横向きになったミカの肩が隠れるように掛け布団を掛けてやると、一度深呼吸するように息を吸い込んだ後、つぶやくように言葉を漏らした。
「孝治さんの匂いがいっぱいします」
少し照れたように、濡れてキラキラと光る瞳をオレに向けながら言うと、掛け布団を引っ張って首を竦めるようにした。その仕種にドキッとさせられる。
(か、可愛いかも……)
い、いかん。変な事を考えるな。ミカは子供で天使なんだぞ。それにオレは涼子さん一筋じゃなかったのか。
ドキドキと高鳴る胸を落ち着かせようと、頭の中で憧れの人の姿を思い浮かべる。
ようやく落ち着いたところで、足下と肩口からすきま風が入ってくる事に気がついた。良く見るとミカの形崩れしないスカートと羽根が邪魔になって、掛け布団に隙間ができていたのだ。
「なあミカ。その格好何とかできないか。すきま風がスースー入ってくるよ」
「そうですね。それじゃあ……」
そう言うとまた、一瞬ミカの姿が消える。「ふぁさっ」と掛け布団が下に落ちてすきま風が止まるのと同時に、ミカが姿を現した。
「人間の姿に変えました。これでどうでしょう」
「そうだな……」
肩口は羽根が消えたために、しっかりと布団が掛けられるようになった。しかし足の方はどうしたんだろう。
確認しようと手を伸ばしてみる。ぴとっと触れた所は、少女らしいすべすべした肌の感触。ミカの脚だった。手を動かして探ってみても、服らしき布の存在は一切確認できなかった。
「やだ。孝治さん、くすぐったいです」
「み、ミカ……お前、裸なのか」
慌てて手を引っ込める。少し乱暴に動いたために胸元にできた布団の隙間から、ミカの小振りな胸の曲線がチラッと見えた。
「しょうがないです。あの服は一体型だから、脱がないと膨らみが消えなくて。それに他の服はないし……でも大丈夫です。パンツは穿いてますから」
「そういう事じゃないだろ!」
布団をずらさないようにしながら抜け出すと、急いで階段を降りてクローゼットを開ける。中から部屋着として使っているスウェットの上下を取り出すと、上に向かって放り投げた。
「きゃっ! なんですか、これ」
「いいから、それを着ろ。終わったら呼んでくれ」
階段に寄り掛かって「はあっ」とため息をつく。上の方でごそごそとミカが着替えている音がした後、オレを呼ぶ声がした。
「終わりましたぁ」
階段を上がっていくと、敷き布団の上にペタンと女の子座りをしているミカが見えた。拗ねたような表情をして、腕をパタパタと動かしている。
「これ、大き過ぎです」
きゅっと握った拳の先から十センチくらいの長さで、スウェットの袖がしおれて揺れている。脚の方はふくらはぎの部分がルーズソックスみたいに膨らんで、幾重にも皺を作っていた。
別に計算した訳ではなかったが、これでミカの可愛らしさが倍増したように感じられた。村田先輩みたいな少女好きの趣味を持った人が見たら、一発でとろけてしまうだろうな、なんて――。そんな考えが浮んで、思わずクスッと笑ってしまった。
「もう、笑わないで下さい」
「ゴメン、ゴメン。別に変な意味じゃないんだ。ただ、可愛いなぁと思って」
「え、そうですか? なら許してあげます。さ、早く寝ましょう」
照れたように顔を少し赤くしながらそう言うと、一人で先に布団に潜り込む。遅れてオレが布団に入ると、ミカはオレに身体をぴたっとくっつけるようにしてきた。
「服、ありがとうございます」
「いいって、そのくらいの事。それより聞き忘れてた事があるんだけど」
思い出して尋ねると、ミカは「ん?」と疑問を浮かべた表情をして、まっすぐにオレを見つめる。
「ミカはどうしてオレのところにきたんだ。その理由を聞いてなかったのを思い出してさ」
そう言った途端、ミカの顔が少し曇ったような感じがした。そしてオレから視線を逸らすと、俯いてしまう。しばらく沈黙が続いた後、ミカはおもむろに口を開いた。
「知りたいですか?」
「うん」
たぶんこれから同居人として一緒に暮らしていくんだろうし、ここにきた理由を知る権利がオレにはあるはずだ。単純にそう思っただけなのだが、何か知られてはいけない重大な事でもあるような感じがした。本当に聞いて良かったんだろうか。
「本来は本人に教える事は避けなければいけないんですが、孝治さんなら大丈夫そうですね。『存在を知られてしまった場合の特別条項』の適用をします。私が孝治さんの許にきた理由はですね……」
ごくっとオレが唾を飲み込む音が、辺りに響く。ミカがもったいつけるように喋るから、少し緊張して喉が乾いてきた。
「孝治さんの魂を無事に天界へと送る事。つまり一週間後――日付が変わっちゃいましたから、正確には六日後ですね……」
ミカがそう言うのと同時に、枕許の目覚まし時計がカチッと音を立てて針を一目盛り進めた。全ての針が天井の方を向いて重なりあう。
「その日に孝治さんが亡くなる事が決定したからなんです」
日付が変わるのと同時に、オレの頭の中は真っ白になっていた。
天使が家にやってきた(前編) ― 了 ―