「きりーつ! ……気をつけ。れーい」
「おはようございます!」
もうすぐ夏になろうかとする季節。とある学校の5年生の教室に、元気な声が響き渡る、朝のひとこま。
「おはよう。よし、じゃあ出席とるぞー」
その教壇に立つ、ひとりの若い教師。ブルーのシャツにネクタイをきちんと締め、優しそうな風貌から非常にさわやかな印象を受ける。その彼が、今年から教師としてこの学校に着任した籠原和弥。まだ23歳の青年である。
「倉田」
「はい!」
「住野」
「はーい!」
五十音順に並んだ名簿を見ながら生徒の名前を呼び、その声とともに顔も確認する。答える声とその表情で、今日は元気か、ちょっと元気がないか、ということがわかる。生徒によって違う返答の仕方も、聞いてて面白い。
初めこそ、生徒の名前と顔が一致しないせいで出席を取るのも詰まっていたし、授業をしていても挙手した生徒の名前をすぐに言えない事も多かった。だけど、2ヶ月ちょっと経つと名前と顔も覚え、出席を取るのもスムーズになった。
「竹浦!」
「はい」
いつも、ちょっと声が小さいのが竹浦美穂。声が小さいから元気がない、というわけではなく、おとなしい性格とからだがちっちゃいのでそう感じるだけで、実際はけっこう積極性はあるし、明るい娘なのだ。話をすれば乗ってくるし、なにより笑顔がかわいい。
ただ、家庭訪問に行ったときに聞いた話では、両親が共働きで、一人っ子。父親が東北の方へ単身赴任であること、母親も帰るのがいつも遅いらしいから、ちょっとさびしい部分はあるような感じだった。それだけに、学校に来ていることがすごく楽しそうに見える。
「よし、じゃあ授業するぞ」
出席を取って朝の連絡を伝えると、ホームルームが終わって1時間目の授業に入る。和弥はシャツの袖をまくると、白チョークを持って黒板へと向かう。そこに書かれる字も、まだまだ妙なくせのある字。教師となってまだ2ヶ月。黒板に板書する字も、まだまだ慣れていないのだ。
「じゃあ、こないだの続きからな。えーっと、23ページの最初から……」
和弥の声でみんなが教科書のページを開き、授業が始まる。決して大声を出しているというわけではないが、和弥の声は教室中によく響く。新任の教師として、和弥も元気を出してクラスを引っ張ろうとしているのだ。
一時期、学級崩壊によって授業ができないとよく言われた時期があったが、それを教師になろうと思い立った高校時代や、大学時代の教員の免許を取得するため、勉強している最中に聞いていた和弥にとっても、最初は授業を進めるのが非常に不安だった。
それでも、同じ学年の他の担任の先生の協力やアドバイス、たまに来てくれる補助の先生。そして、和弥が一生懸命に進める授業を生徒がしっかりと受け止めてくれることもあり、ことのほかうまくいっているのだ。
「こういうことなんだけど……。わかった? 質問のあるひと」
問題の解き方を、一通り説明する。和弥の授業の進め方の特徴に、生徒に対してよく「わかった?」とか「OK?」とか聞く事が多い。質問があったら遠慮なく聞きなさい、と常日頃よく言っているせいもあり、授業中の質問も結構多い。
「はーい」
「はい、なに?」
ひとりの男子生徒が質問をしてくる。和弥もその質問を聞いて、きちんと答えていく。
「んで、ここがこうなるから……」
黒板に板書される説明を、皆が熱心に聞いている。和弥も熱心に教えることを、皆がきちんと受け止めてくれているのだ。
「……ということなんだけど。……OK?」
「うーん、……なんとなくわかった」
「よっしゃ。じゃあ、問題解いてみようか。下にある問題をやってみて」
生徒が問題に取り掛かるのと同時に、和弥も教室を回る。
「周りの人と相談してもいいから。わからないことがあったら、先生に聞いてもいいよ」
教室を回りながら生徒を見ていると、みんなそれぞれにやり方があるのがわかる。すいすいと解いてしまう子、鉛筆をあごに当てながら考える子、隣の子と相談しながら解く子。それぞれがそれぞれのやり方で、問題に取り組んでいく。
教室を回る中で、数人の生徒から質問を受けながら、和弥も教えていく。本物の教師となってまだ2ヶ月足らず。和弥も、まだまだ勉強の日々が続く。
「先生。ここ、いいですか……?」
何度か教室をまわるうちに、美穂から質問を受ける。いや、美穂からというより、隣の子に教えていたのだけれど、うまく説明できなかったのだろう。美穂自身は問題を解き終わっているようで、そのノートには答えが既に導き出されていた。
「あぁ、えーっと……。ここはな……」
同じような質問を他の生徒から言われることも多々あるが、和弥はひとりずつ、しっかりと教える。美穂は和弥の説明を聞きながら、じっと顔を見つめている。その視線に、和弥も気付く。
「ん? どうした竹浦。先生の顔になんか付いてるか?」
「い、いえ……。なんでもないです」
少しほほを染めて、美穂がふるふると顔を振る。ショートカットの髪が揺れるその姿が、何かほほえましい。
「あの、それで……。ここがこうなったら……」
「うん。それもいっしょでな、ここを……」
隣の子への説明が終わったとき、今度は美穂が別の質問をしてくる。ここまでの授業をしてきた感じでは、美穂はけっこう勉強が出来る子のようだ。問題を解くのも速いし、理解するのも結構早い。
「オッケー?」
「はい、ありがとうございます」
そう言って、にこっと笑った美穂の顔がものすごくかわいい。思わず、和弥もドキッとしてしまう。
(なんか、竹浦の顔見ると、調子が狂うなー……)
悪い意味で変わるというわけでなく、なにか他の子の笑顔と違うように見えてしまう。
「気のせいかな……」
和弥は誰にも聞こえない声でつぶやくと、ふたたび教壇へと立った。
時間は変わって、放課後。帰りのホームルームを終えて、美穂は仲のよい友達のあや、あずさといっしょに下校していた。この3人はいつも仲がよく、休み時間や帰るときはいっしょにいることが多い。
「それで、水野くんサッカーやめさせられちゃったんだって」
「えー、そうなんだ。体育のサッカーのときとか、けっこう上手だったのにね。水野くん」
「なんだかかわいそうだよね、そういうのって……」
あやが同じクラスの男子の話を持ち出して、あずさもそれに乗ってくる。美穂も、それを聞きながら話に入る。
「でも水野くん、かっこいいって、けっこう人気みたいだしね」
「あ、やっぱりそうなんだー」
そこらへんは年頃の女の子たち。やっぱり、話題はそういう方向に向く。
「他のクラスの友達も言ってたよ……、水野くんかっこいいって」
「そうだよねー。ほかのスポーツも出来そうだもんねー」
あやが腕組みをして、うんうんとうなづきながら言う。
「体育のときとか、みんな見てるもんね」
「あー。あずさちゃん、もしかして狙ってるのー?」
「違うよぉ。わたしは、好きな人が別にいるもん」
少し笑いながら、否定するあずさ。
「えー、だれだれ。教えてー。美穂ちゃんも、知りたいよねー」
「えへへ、うん……」
ふたりの会話を聞きながら、美穂も笑って言う。
「だめー。教えられない」
「えー、どうしてー。誰にも言わないからー」
しつこく食い下がるあや。この手の話題は、やっぱり盛り上がるのだ。
「そういうあやちゃんだって、誰か好きな人いるんでしょ?」
「えっ……。い、いるにはいるけど……」
あずさの切り返しに、言葉が詰まってしまうあや。
「ね、美穂ちゃんも聞きたいよね」
「うん、私もあやちゃんが好きな人誰か気になるな……」
美穂からもそう言われ、あやがちょっと焦る。
「た、たぶん、あずさちゃんも美穂ちゃんも知らない人だもん。だから、言ってもわかんないでしょ」
「じゃあ、わたしが好きな人も、あやちゃんも美穂ちゃんも知らない人だから言わないー」
あずさもそう切り返す。
「うーん……」
不本意そうなあやの顔。このあたりがどうなったかは、別のお話を参照していただきたい。
「あ、でも、水野くんもそうだけど、飯島くんももてるんだよね」
あやが話を切り替えて、好きな人の話を流す。
「そうそう。他のクラスの子も、狙ってるとか言ってたよ」
あずさもそれに乗って、さっきまでの話を流してしまう。
「でも、かっこいいって言うんなら、籠原先生もかっこいいよね」
「そうだよね、いつもネクタイ締めてるし、服もきちんとしてるもん。美穂ちゃんは?」
あずさから話を振られて、美穂も口を開く。
「うん、……わたしも籠原先生結構かっこいいと思うよ」
あやとあずさは気が付かなかったが、美穂は少しだけほほを染めていた。
「かっこいいっていうか、優しそうだよね。まだ若いし」
「いくつだったっけ、籠原先生って」
若い若いとは言ってもいくつだったっけと、あやとあずさは具体的な年齢を忘れてしまっている。
「23歳だよ」
それを、美穂が即答する。大学を卒業してすぐに採用され、いきなり担任を持ったからまだこんな歳。
「23歳かー。やっぱり先生の中でも若いよねー、籠原先生って」
なにか感心するようにあやが言う。和弥も、自分よりもさらに若い連中に言われたくはないだろうが……。
「籠原先生が好きな子って、けっこう多いんじゃないのかな?」
「えっ! そうなのかな?」
あずさが言ったことに、美穂が声を上げる。
「あ、美穂ちゃん。もしかして籠原先生のこと好きなの?」
その声の上げ方で、あやがすかさず突っ込んでくる。
「……」
何も言えず、顔を赤くして黙ってしまう美穂。何も言わなくても、その顔が全てを物語ってしまっている。
「そっか。……でも、大丈夫だよ。歳の差なんて関係ないよ」
あずさがそう言う。しかしその言葉は、なにか美穂に言ったような言葉ではないような感じだった。
「がんばってね、美穂ちゃん。応援してるよ」
あやが分かれる路地。そう言って、あやが路地を曲がっていった。
「ね、……あずさちゃん」
「なぁに?」
「歳の差なんて、本当に関係ないのかな……?」
ふたりが分かれるまでの間、美穂がそんな事を聞いてくる。
「……どうかな。……わたしもね、本当はわかんないんだ……」
あずさの声のトーンが、少し沈む。
「美穂ちゃんだから言うけど、わたしね、……隣の家に住んでる24歳の人が好きなんだよ……」
あずさの家の隣に、春に引っ越してきた男性。なんとなく仲良くしてるうちに、あずさも気持ちが出来てしまったのだ。
「お付き合いできるかどうかわからないけど……。そうしたいなって、思ってるんだ……」
「わたしも、……籠原先生とお付き合いしたいけど、……難しいよね」
美穂の声のトーンも下がる。少女の、複雑な思い。
「でもね、……あきらめたらダメだよね。……好きって言うのを伝えるだけでも、しないとね……」
そう美穂が言う。あずさもこくんとうなずいて、顔を上げる。
「がんばろうね、美穂ちゃん」
「うん。がんばろうね……」
あずさと分かれてひとりで家に帰る道。美穂は、小さな思いを確かに感じた。「わたしは、籠原先生が好き」と。